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zoom RSS 「西郷どん」が始まりました。島津斉彬公、そして仙巌園のことをまとめてみました。

<<   作成日時 : 2018/01/13 12:35  

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今朝、お寺にお参りに行ったら、お坊さんが身近な人の「西郷どん」の視聴率をきくと、ほぼ100パーセントと話されましたが、今朝のお参りされていた方でも20人もいらしたでしょうか。その中でも観てない人は1人だけでした。

鹿児島の視聴率、ビデオリサーチでは34・9%だそうです。

お膝元、鹿児島での西郷どん人気はすごいですが、西郷さんが実際仕事でも訪れていて、逸話の多い吉野大地での人気は、よりすごいものがあるんですね(*^-^*)

西郷さんが尊敬してやまない島津斉彬公を祀る「照国神社」、そして、世界遺産の「仙巌園」のことを以前の断食セミナーの資料としてまとめたものがあります。

「西郷どん」を楽しむのに、参考になるかと思います。

興味のある方はご覧ください。


鹿児島の世界遺産「旧集成館、寺山炭窯跡、関吉の疎水溝」

2015年、旧集成館、寺山炭窯跡、関吉の疎水溝が世界文化遺産(明治日本の産業革命遺産)に登録されました。

これらの世界文化遺産は島津家の藩政によって作られましたが、これらは薩摩藩だけでなく、日本の国を見据え、欧米列強と渡り合うには日本が一つになり、強く豊かであるべきと考え、鎖国状態にあったにもかかわらず様々な事業を展開していきました。

これらの世界遺産を作るのに係わった島津斉彬(しまづ なりあきら)を祭る「照国神社」、そして日本初の、今で言う、コンビナート(工場群)といえる「集成館」は先人の知恵と行動力を知ることができます。

照国神社
鹿児島市の中心地、天文館からほど近い城山のふもとに「照国神社」があります。
正面入り口には大きなイヌマキの木が両手を広げて、参拝客を歓迎するかのようにお出迎えしてくれます。

照国神社の前の大きな交差点は、北九州を起点とし、大分県、宮崎県と九州の東側を通る国道10号線と、同じく北九州を起点とし、福岡県、熊本県と九州の西側を通る国道3号線のそれぞれの終点で、地図上でもとても重要な場所にあります。

島津家28代当主11代藩主島津斉彬を祭る照国神社は、かつて徳川家康を祭る東照宮が建っていた場所に、斉彬公の遺志を継いだ弟久光公と、甥の忠義公が神社を建て「照国神社」としました。

島津斉彬公は1809年に生まれ、1851年に43才で領地を受け継ぎました。
その治世期間は1858年に急死するまでの、わずか7年間でしたが勝海舟をして「幕末第一等の英主」と言わしめた名君です。
斉彬公は、その身分を問わず、西郷隆盛や大久保利通など、また他藩からも登用し、幕末の日本を開国に導きました。


近代産業化に貢献した集成館事業
斉彬公が藩主になる10年前1840年に清(中国)でアヘン戦争が起こります。
斉彬公は、一島国の英国軍が大国・清に圧勝した情報をいち早くつかんでいました。
また、ペリー来航よりも前1844年から1846年にかけて薩摩藩の支配下にあった琉球にフランスやイギリスの軍隊が、たびたび上陸し、交易を迫ったことによって、斉彬公は列強が日本に進出することを予測し、藩主に就任すると早速、薩摩藩の近代化に取り組みました。

欧米諸国の海外進出が、近代的な大型商船や軍艦に支えられていることを知っていた斉彬公は、まず造船業に着手しました。
帆船に始まり、日本で初めての蒸気船「雲行丸」を十分な資料がないにも関わらず、オランダの書物を翻訳し、また、アメリカから帰ったジョン万次郎の話を参考にするなどして完成させました。
そして、この船の旗印を「日の丸」にしました。
その後、集成館の地「磯」だけでなく桜島でも造船所が作られ、ここで本格的な洋式軍艦の「昇平丸」が作られました。
この昇平丸を幕府に献上したその際に、斉彬公は、この洋式軍艦を外国船と区別できるように「日の丸」を日本の船の印にするように提案し、それで「日の丸」が日本全体の総船印(そうふなじるし)になったといわれています。
集成館から始まった造船が日本の造船の始まりであり、日の丸が国旗となるきっかけとなったことは感慨深いものがあります。

集成館では造船だけでなく、銑鉄(せんてつ)(鉄)を生産するための高炉(溶鉱炉)が建設され、日本初の本格的な高炉となりました。
その後、高炉にとどまらず、大砲鋳造用の上質の鋼鉄を一度に大量生産できる大型反射炉の建設に着手します。
オランダの手引書を翻訳し、それを参考にして作りますが、なかなかうまくいきませんでした。
すると斉彬公は「西洋人も人なり、薩摩人も人なり、退屈(へこたれず)せず、ますます研究に励むべしと激励したそうです。
そして、ここで製造に成功した大砲は鹿児島の台場に設置され、斉彬公死後に起こった薩英戦争で活躍します。

集成館では大砲や銃など軍事関連産業だけでなく、このほかに、薩摩切子などの各種ガラス製造、和洋折衷の磁気、工具、農具など、様々な産業の振興がはかられました。
特に薩摩切子の赤や緑の美しいカットガラスの技法は集成館事業によって生まれまし
た。
斉彬公の鎖国下にあっても、「日本人も広く海外に出かけて交易すべき」という考えから外国人好みの柄に変更するなど輸出を念頭に入れて、当時不可能といわれていた紅ガラスの製法を研究させ、銅粉で暗紅色、そして金粉で透明な紅ガラスの製造や、藍、紫、黄などの発色に成功しました。

斉彬公の造船事業や集成館事業は、当時訪れたオランダ人もさせるほどの水準を誇っていました。
しかし、斉彬公が急死した後、斉彬公の政策に批判的だった斉彬公の父島津斎興(しまずなりおき)が再度実権を握ると、その事業は縮小、あるいは廃止されてしまいました。

そんななか、1863年に薩英戦争が起きます。
その頃には、すでに薩摩藩の軍備は旧式になっており、英国軍によって砲台はすべて壊されてしまいました。
高度な軍事力や化学技術を目のあたりにした薩摩藩は、集成館事業で洋式の技術導入した斉彬公の先見性を痛感することになりました。
産業革命のきっかけは生麦事件から!
幕末1862年、薩摩藩主島津久光公の行列が武蔵野国生麦村(現在の横浜市鶴見区生麦)を通りかかった時、4人のイギリス人が馬に乗ったまま行列に乗り込んできました。
藩士たちは馬を降りて道を譲るように言いましたが、言葉が通じなかったこともあって、イギリス人は馬に乗ったまま突き進み、ついに久光の籠に接近しました。
そのため供回りの藩士たちは彼らに斬りつけ、イギリス人1名死亡、2名が重症を負った生麦事件が起こりました。

翌年1863年、英国は幕府との賠償や犯人の処罰の交渉の後、薩摩藩に直接その処罰を求めましたが、らちがあかず7月2日イギリス艦隊が薩摩藩の船を拿捕したのをきっかけに薩摩藩がイギリス艦隊を砲撃し、薩英戦争が勃発しました。

薩摩藩はこの戦争で鹿児島市街が焼失するなど大きな被害を受けますが、イギリス艦隊側も損傷が大きく、2日後の4日には鹿児島湾を去り、薩英戦争は収束しました。

この薩英戦争によって、それ以前は薩摩藩では外国人を排斥する攘夷論を唱える藩士が数多くいましたが、武力の圧倒的な差を見せつけられ、その愚かさを知ることになりました。
そして、薩英戦争で敗北した薩摩藩は、講和交渉で英国に留学することを相談しました。
これには英国も驚きますが、一藩が英国を相手に奮戦したことを認め、戦った相手から学ぼうとする姿勢を評価し、薩摩藩と英国は急速に親交を深めました。

薩摩スチューデント
薩摩藩は藩使節3名、通訳1名、留学生15名を決め、1865年有望な藩士19名を英国に派遣しました。
その多くは蘭学を学んでいた優秀な藩士でしたが、藩は留学生の人選にあたって強硬な攘夷論を唱えていた藩士3名もあえて含みました。
しかし、その3名が辞退したので、島津久光が自ら説得したと伝えられています。
このことでも、久光公の思いが伝わる気がします。

当時は留学とは言ってもまだ鎖国中、一般人の渡航は禁じられていたので、これは密航でした。
そのため藩は偽の甑島や大島への出張命令書を出したうえに、全員に名前を変えさせるなど、幕府の監視体制にも万全の注意を払い、鹿児島県いちき串木野市の羽島から船出するために2か月この地に滞在し、グラバー商会の蒸気船オースタライエン号を待ちました。
彼らは出発の前に武士の誇りのちょん髷(まげ)を切り落とし、まだ見ぬ世界へ行く大きな覚悟をしたに違いありません。

2014年7月オープンした「薩摩英国留学生会館」に、当時の「出張命令書」や留学生が残した手紙など、彼らにゆかりの物や資料が多数残されています。
まさか、ここから英国に船出したとは思われないような小さな静かな村の、東シナ海が広がる岩場を見ると、当時の彼らの緊張や覚悟が伝わってくるようです。

そうして鹿児島を密かに出発した留学生たち一行は、香港でガス灯を見て夜の明るさに驚き、スエズでは完成間近の運河を見学し、また、蒸気機関車に乗るなどたくさんの国の文化に触れ、さまざまな体験をしながら2か月かけて英国に到着しました。
そして、また、ロンドンに着いたら、数年前に完成したばかりのビックベンに度肝を抜かれました。

留学生はロンドン大学で学びながら、英国の工場や農場を見学して回り、多くの知識や技術を得て、現地では「薩摩スチューデント」と呼ばれ評判になり、彼らの優秀さや礼儀正しさを現地の新聞が伝えました。
藩使節の中には、NHKの朝ドラ「あさがきた」で有名になった五代友厚もいましたが、五代は藩使節として、紡績機械の買い付け契約を結び、同社の技術者を薩摩に派遣し、技術指導にあたるようにも要請しました。
磯に日本で初めての機械紡績工場の鹿児島紡績所が、こうして設立されました。
この時買い付けた機械は、現在鹿児島市にある尚古集成館で保存展示され、その時の英国からの技術者の宿舎も「旧鹿児島紡績所技術館」として世界遺産の一つになっています。

15名の留学生のうち、長沢鼎(ながさわ かなえ)以外は大学で学びましたが、長沢鼎は最年少の13才で、まだ入学年齢に達していなかったので一人中学に入学しました。
長沢は、異国でただ一人の生活でしたが、最後にはトップの成績を修めるほど熱心に学びました。
そして、長沢鼎は英国からアメリカに渡り、カリフォルニアでのワイン作りを研究し、
「カリフォルニアのワイン王」、「ぶどう王」と呼ばれるほどになり、イギリスに最初にワインを輸出したのは長沢のワインと言われています。

五代友厚は、その後、大阪証券取引所の初代会頭となり、また、同じ藩使節の寺島宗則は外務大臣となりました。
そして、留学生の中には文部大臣となった森有礼、開成学校(東京大学の前身)初代校長畠山義成、札幌ビールを創設した村橋久成、外交官として活躍した中村博愛(ひろなり)吉田清成、鮫島尚信などがいましたが、帰国後、それぞれの分野で活躍しました。

島津斉彬公の遺志を継いだ久光公の、国禁を犯してまでの英国に渡った薩摩スチューデント一行の学びは集成館事業を復活させ、日本の産業革命の大きな力になり、そして、現代日本の礎ともなりました。

文 角屋敷まり子

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